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Tuesday, January 22, 2008




シシュポス
フォン・シュトゥック画『シシュポス』
作品にこういうラベルを貼り付けて分類するのは実にくだらないことではあるのだけれども、カイジを読んでいると何故か表題にあるような印象が湧いてきて面白く思ったので、ちょっと書いてみることにする。

で、プロレタリア文学とは:「プロレタリアの生活に根ざし、その階級的自覚に基づいて、現実を階級的立場から描く文学。19世紀中葉から1930年代中頃にかけて行われ、日本では大正末期から昭和初頭に大きな勢力に育ったが、弾圧によって1934年以後潰滅」(広辞苑)。「ブルジョア文学に対して、労働者階級の自覚と要求、思想と感情に根ざした文学、および組織的運動としての社会主義的・共産主義的革命文学の総体をいう。」(大辞林第二版

小林多喜二の『蟹工船』などがその代表。漫画では、プロレタリア文学とはまたちょっと違うが、非人出身の忍者カムイの活躍を描くカムイ伝などがマルクス主義的な唯物史観で描かれた作品として有名。厳密には1920年代から30年代にかけて書かれた共産主義運動を主眼に書かれた作品に限定されるらしいが、まぁ搾取の厳しい資本主義社会の下層で貧困に喘いでる労働者の生を生々しく描いて、階級闘争的な蜂起の可能性を臭わせればプロレタリア文学っぽくなる。

カイジに話を戻す。作品名と同名の主人公カイジはうだつの上がらないフリーター。すったもんだの末に地下「強制労働施設」へ送り込まれ、莫大な借金を返すためにそこで15年の労働を課せられるはめになる(第14巻)。労働環境は劣悪で、昔のタコ部屋そのもの。敵役である兵藤和尊は消費者金融グループ「帝愛」財閥の総帥で資本主義の権化のような人物。このどん底から天才的なギャンブルの才覚を発揮してカイジが這い上がって行く様は、まさに革命の英雄然としている。その過程で自分と似た境遇にある社会的落伍者達を仲間にしていくのだが、カイジは自分が裏切られることはあっても自分からは決して弱者を切り捨てたりしない。そして、ギャンブル勝負で勝った分け前は愚直なまでに仲間と完全平等配分。作者の福本伸行は共産主義を公然と標榜してるわけでも、またそうであることを示唆するような発言もしていないのだけれども、このカイジのこだわりは興味深い。

その一方で、敵役である兵藤和尊や利根川幸雄(帝愛幹部)の発言には、今の日本社会の現実を鋭く喝破し、甘えたきった日本の若者を諭すような名言が多く、人気も高かったりする。兵藤らの発言が真実であるような現状自体は憂うべきものではあるのかも知れないが、彼らは一分の「理」も無い、絶対的に疎まれるべき悪として描かれているわけではない。彼らが「金は命より重い…!」現実社会において努力の末に勝者として君臨している様は痛快でもあり、少なくともカイジ以外の自助努力もせず負け組人生まっしぐらな連中と比べればずっと立派で魅力的である。ピカレスクロマン『アカギ』を描いてる作者としても、兵藤ら悪役キャラを嫌いではないだろう。

カイジは人生のどん底から英雄的な復活劇を見せるのだけれども、一度勝ち上がるとまた昔の自堕落なダメ人間生活に戻り、借金を重ね、どん底に逆戻りしてしまう。このパターンが永遠に繰り返されるなら、その様はまるで山頂へ岩を押し上げ続けるシーシュポスにも似ており、これまた今では死語となって久しい実存文学を想起させたりする。まぁ商業漫画的にはいずれ兵藤と再び対決し、何らかの決着を見て終わるのだろうとは思うけれども、これまでのところは、主人公カイジがどんどん勝ち上がって帝愛財閥をぶっ潰し、革命起して社会的弱者に優しい平等社会を実現しよう、みたいな流れにはなっていない(なったらなったで驚くが)。

もしシーシュポスのごとく、カイジが無為であると分かっていてもその不条理を受け入れ、しかしそれに対し永久に反抗し続けるのなら、裏切られると分かっていても仲間達を信頼し続け愚直なまでに平等分配にこだわり続けるなら、その動機はどんなものになるのだろうか? 同作者による別作品『天』の登場人物アカギもまた麻雀・ギャンブルの天才で、彼も同様に「成功」を「積み」重ねて行かない。連戦連勝で大金を稼ぎ、自身も兵藤や鷲津のような権力者になり一大財閥、帝国を築こうとはしない。アカギの場合、その理由は「成功が成功し続ける人生を要求してくる」からであるという。成功して組織を構えて、多くの人を従え、その長になれば、その役割に縛られ保守的になり、結果自由を奪われていく。それを嫌ってアカギは意図的に成功を積み重ねず、「崩す」ことにしている。しかし「勝つことによって人の命は輝く光を放つ」ゆえ、勝負は止めない。勝負のためだけに勝負を続けて行くことになる。まさに自分がsignatureで使っている一節「The absurd is his extreme tension, which he maintains constantly by solitary effort, for he knows that in that consciousness and in that day-to-day revolt he gives proof of his only truth, which is defiance.」そのものだ。カイジの場合はそういう明確な意思があってダメ人間モードに何度も陥っているわけではないが、そこにはある種の福本作品に共通する世界観が現れているように思う。

同じような印象を受けた人が他にもいないかと思い、google検索で調べてみたところ、カイジではなく『最強伝説黒沢』について「プロレタリア漫画」と書いているブログが一つあった。自分的には、『黒沢』のほうは主人公である労務者のおっさんの姿を面白おかしく描いていて、主人公自身はその状況に強く抗ったり喘いでいたりするわけでもないので、ちょっと違うように思う。

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